雨後の森と焚き火

文学のこと、音楽のこと、教育のことなどを書きます。

01.「文学的な歌詞」とはどういう歌詞か

これからこのブログは文学や歌詞の話をしていく予定ですが、

それに先立って、まずは私の文学観をはっきりさせておこうと思います。

 

 

 

0. 問題提起

 

昨今、「文学的な歌詞」をセールス文句にしているバンドは山のようにあります。

ですが、その中には、個人的に全く文学的と感じられない歌詞を歌っているバンドもいます。

 

これは「文学的」という言葉の定義に対する認識の齟齬があることの現れだと言っていいでしょう。

 

 なんだか多くの人が、物語風の歌詞=文学的な歌詞 だと思っているような気がします。

しかし、私の文学観ではこの認識は間違いです。

  

では 私が文学的な歌詞だと言うときはどのようなものを指すのか、以下に説明していきたいと思います。

 

 

  1. 文学とは何か

そもそも文学とは何か、という話をしたいのですが、

ちゃんと語ろうとすると相当時間がかかるので割愛しまくって話します。

 

1.1 辞書的な意味

一般に、広義の意味では、言葉を媒介とした芸術作品のことを文学と呼んでいます。

(ちなみに西郷竹彦という文学教育の研究者は、文学のおける芸術としての側面をより強く引き出そうとして、「文学」ではなく「文芸」という言い方を選んでいますね。) 

 

この時点では文学の定義としていまいちピンと来ないと思うので、分かりやすいように具体的な例を挙げたいと思います。

かつて大西忠治という文学教育の研究者が、文学作品を詩・小説・戯曲の3種類に分類していました。*1

他にも研究者によっては、随筆や文芸評論なども文学に含まれるとの見方をしている研究者もいます。

 

つまり文学とは、「小説・詩・戯曲・随筆・文芸評論...といった、言葉で表現された芸術作品である」というのが辞書的な意味なのです。

 

1.2 純文学と大衆文学

どんな言葉もそうですが、現実世界において言葉というものは、辞書的な意味よりもやや広がった意味を持って使われるものです。

この文学という言葉も同様で、実を言うと、文学の下位分類にあたるはずの「小説」が、文学とほぼ同義として使われることもあると私は思っています。つまり文学=小説という意味で使われることもあるのです。

 

それは、「純文学」と「大衆文学」という言葉に現れています。

 

純文学とは、娯楽性よりも芸術性を重視した小説

大衆文学とは、芸術性よりも娯楽性を重視した小説

 

という定義に一応はなっていますが、1つ1つの作品を明確に区分けするような基準はありません。

ただ、両者ともに小説の区分でしかないはずなのに「○○文学」という名を冠しているという点から、この文脈において小説と文学はほぼ同義で使われていると言えるでしょう。

 

1.3 大衆文学は文学ではない?

しかしこの大衆文学に対して、「文学ではない」と批判的な意見を述べている研究者も中にはいます。

例えば僕の通っていた大学にも、伊坂幸太郎を研究をしようとしているゼミ生に「そんなのは文学じゃない」と言った教授がいました。

 

もっと分かりやすい例で言えば、ライトノベルは文学じゃないという感覚を持っている方はたくさんいるのではないかと思います。

しかしライトノベルは小説の一種であり、小説は文学の一種であるのだから、ライトノベルも文学作品であるはずです。

しかし感覚として「なんか違う気がする」と思われる方も少なくないのではないかと思います。

(これに関しては年代や読書歴などによって感覚が異なるものでしょう。)

 

そうした主張や感覚はどこからやってくるのでしょうか?

これについては、最初に確認した文学という言葉の辞書的な意味が原因ではないかと考えられます。

 

先程、文学とは言葉を媒介とした芸術作品だと確認しました。

そう、文学とは芸術なんです。

その大前提に立った時、大衆文学は、芸術性を捨てて娯楽性を重視している時点で、もはや文学とは言えないだろうという主張や感覚に至るのではないでしょうか。

ましてはライトノベルは気軽に読める小説という名前の通り、娯楽性に振り切っている(ものが大半を占める)わけですら、そういう感覚が持たれてしまうのだと思います。

 

2. 「文学的」とはどういうことか

2.1 私の文学観

さて、私の文学観は、この「大衆文学は文学ではない」という立場にかなり近いものがあります。

流石に、大衆文学は文学ではない、とまでは言いきりません。大衆文学は文学ではないとまで言ってしまうと、大衆文学は小説なのに文学ではないという矛盾が生じてしまい諸々の説明がつかなくなってしまうからです。

 

しかし、文学の本質は芸術であるという部分は私も強く賛同します。

これが私の文学観の根っこの部分です。

 

2.2 「文学的」とはどういうことか

このような文学観に立ったとき、「文学的」という言葉の意味も必然的に定まってきます。

文学的とは、文学のような、つまり「文学の本質的な部分を持っている」ということを指します。

それは先程から述べているように、言葉の芸術性があるということです。

 

つまり文学的とは、「言葉を媒介とした芸術としての性質を持っている」様子を指すという認識を私は持っているのです。

 

3. 「文学的な歌詞」とはどういう歌詞か

では、その言葉の芸術ってのはどういうことなの?という話になってきます。

それを述べるためにまず芸術とは何か、という話から順に説明しようと思います。

 

3.1 芸術とは何か

 

マルセル・デュシャンという芸術家の「泉」という作品をご存知でしょうか。

 

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マルセル・デュシャン「泉」(1917年)

写真を見て、「ああ、これね」となった方も多いことでしょう。有名な作品ですね。

これは、既製品の便器にサインをしただけの作品ですが、これが芸術界では高く評価されています。

なぜこれが芸術と呼べるのでしょうか?

 

ちょっと調べてみましたが、詳しいことはこの記事が分かりやすかったです。↓

【作品解説】マルセル・デュシャン「泉」 - Artpedia アートペディア / わかる、近代美術と現代美術

 

この記事によると、次のように書かれています。

彼は生活の中の日常的な品物をとりあげ、新しい題名と新しい観点のもとでその有用な意味が消え去るように、それを置いたのである。つまり、あの物体に対する新しい思考を創り出したのだ。

 

つまり、デュシャンはこの作品を通して「便器と言う誰でも目にしているものであっても、視点を変えれば芸術作品と言えませんか?」「皆さん、視点を変えてみませんか?」と世界に問いかけたのであり、それによって実際に新しい視点へと導いた、ということこそに価値があるのだと思います。

 

そう考えると、芸術とは、単に美しいものを創造することだけを指している訳ではないのでしょう。

というか、美しい必要性はありません。便器のように不衛生なものでもいいのです。

重要なのは、その作品を享受する者に対して、新しい視点や考え方を与えられるかどうか、です。

それが芸術の本質なのです。

 

 

3.2「文学的な歌詞」とはどんな歌詞か

では、言葉の芸術とはどういうことを言うのでしょうか。

それは、言葉を通して、新しい視点や考え方を与えられるものだと言えます。

 

例えば、誰でも知っている単語を、誰もしたことのない組み合わせで繋げてみたとき、その単語そのものに対する見方を変えることができるかもしれません。

 

スピッツの「空も飛べるはず」には、「ゴミできらめく世界」という歌詞があります。

このとき、「ゴミ」に「きらめく」という形容詞を繋げることで、今までの「ゴミ」に対する見方が変わった気がしませんか?

もしくは、この文脈の中では「ゴミ」が指すものが空き缶や消しゴムのカスやほこりなどの廃棄物だけでなく、泥臭く必死に生きている人間にまで広がったように思えませんか?

いずれにしても、この2つの単語を組み合わせたことによって、解釈に広がりが生まれていることは事実でしょう。

 

これが言葉の芸術だと私は思います。

 

つまり、「文学的な歌詞」とは、読み手に新しい視点や考え方を想起させたり、解釈にひろがりをもたせたりするような、斬新な言葉の使い方をしている歌詞ではないかと、私は思うのです。

極端に分かりやすく言うなら、誰でもできるようなストレートな表現や、意味が1つに定まってしまうような余白のない歌詞というのは文学的な歌詞ではない、ということを言いたいのです。

 

そういう意味で、一番はじめに述べたように、物語風なっているかどうかというのは全く関係ありませんし、なんなら歌詞のテーマや内容自体も問いません。それをどう表現しているか、それが全てです。

 

4. まとめ

・文学の本質は芸術だと考える。

・芸術の本質は新しい視点や考え方を与えることだと考える。

・このブログにおいて、「文学的な歌詞」を、「読み手に新しい視点や考え方を想起させたり、解釈にひろがりをもたせたりするような、斬新な言葉の使い方をしている歌詞」と定義する。

 

 

 

最後まで読んでくださりありがとうございました。

*1:大西忠治(1991)『大西忠治「教育技術」著作集 第 12 巻 読み方指導の改革提案』明治図書