雨後の森と焚き火

文学のこと、音楽のこと、教育のことなどを書きます。

03.短歌の沼へ引きずり込みたいpart1

 

突然ですが、僕は短歌が本当に好きです。
しかし短歌を語り合える友人が一人もいません。(うけるね)

 

昔はそれでもいいやと思っていたものの、最近はなんだかさみしいので
このブログで僕のお気に入りの短歌を紹介することによって、一人でもいいから誰かを短歌の“沼”へと引きずりこもうと思います。

一応予定では俵万智、藪内亮輔、千種創一の3人を紹介する予定です。
今日は俵万智です。

 

 


1.一首目

 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日*1

 

1-1.作品の概要

 俵万智の中で最も、というよりもはや、現代短歌の中で最も有名な歌だろう。


 概要としては「七月六日、あなたはサラダの味を褒めてくれた。たったそれだけのことなのにとても嬉しくて、私にとっては記念日になりましたよ。」といった感じだろうか。
 相手(おそらく男性)の何気ない一言で一喜一憂してしまうくらい、語り手(おそらく女性)は相手のことが大好きでたまらないといった様子をうまく描写していると思う。

 

1-2.作者の込めた創意工夫

 さて、実はこの歌、俵万智自身がいくつか本やインタビューで制作秘話のようなものを語っている。


 それらによると、この短歌は、確かに俵万智自身の体験をもとに詠んだ歌ではあるものの、実際には7月6日の出来事ではない上に、味を褒められたのもサラダではなく「カレー味のからあげ」だったそうだ。 


 そのため一番最初に五七五七七の形になったときは以下のような歌だったという。

 

カレー味のからあげ君がおいしいと言った記念日六月七日*2

 

ではなぜ、「カレー味のからあげ」は「サラダ」に、「六月七日」は「七月六日」になったのか。それについて俵万智は主に以下の2つの理由を挙げている。

 

  ① さわやかな音の響きを作るため

  ② 「何でもないこと」を演出するため

 

 ①については「『シチガツ』と『サラダ』のS音が、下の句で響きあって、爽やかな感じが出ている」*3と述べている。歌人が歌をつくるときにいかに「音」を大切にしているかがわかる。

 また七月にしたことで初夏の爽やかさも加わっている。初夏といえば夏野菜が旬を迎えておいしい時期でもあり、サラダにピッタリである。

 

 ②については「大げさなメインディッシュでない点でも『サラダ』は気に入った。また、日付としては特別な日ではないことが大切だ。七月七日では、恋の歌に付きすぎだろう。」*4と述べている。

 確かに、七月七日は、織姫と彦星が一年に一度だけ会える「特別な日」であり、その前日である七月六日はまさに「何でもない日」と言える。またサラダという存在も、からあげのような主役と比べて明らかな脇役、つまり「なんでもない料理」である。
 

 

 この2つを組み合わせることによって、「何でもない日」に「何でもない料理」を褒めてもらえたという状況を作っているのだ。それによって、そんな日がそんな理由で記念日になることの異常さ、つまりは相手への尋常ならざる愛情を、俵万智は表現しているのだ。

 

 

1-3.蛇足

 以下は完全に蛇足、というか、ただの深読みでしかないのだが、
 僕は、「この味がいいね」という言葉をかけた男性は、恐らく自分がそんなことを言ったなんて覚えていないタイプの男なんだろうと想像している。

 この前後の歌を見ると、この男性は恐らくそこまでこの語り手の女性のことに夢中にはなっておらず、女性のほうだけが一方的に(といったら言い過ぎかもしれないが)男性の方へ熱烈なまでの好意を抱いているような様子がうかがえるからだ。

 

 そのような文脈の中で、サラダを褒められたごときで舞い上がっている様子を、もはや残酷なまでに爽やかに描写されてしまうと、僕としては健気でかわいらしいなどと思う以上に、「不憫だ」と感じる。

 でも、こうした爽やかさの奥に陰りが潜んでいるところが、とても奥行き深くていい歌だなと思う。

 

 


2.二首目

あかねさすテラスはつかに春を告げくるんと次の葉を出すアビス *5

 

 「はつかに」は「わずかに」という意味の古語。「アビス」は観葉植物の名前。そして「あかねさす」は枕詞の一つである。この歌は、「あかねさす」の使い方が本当に、本当に、本っ当に天才的だと思う。

 そのことを説明するために、まずは枕詞のことを説明したい。

 

2-1.前提:枕詞の説明

 枕詞というと、次の言葉を引き出すための修飾語である。たとえば「たらちねの」という枕詞の後ろには「母」が来るし、「あをによし」という枕詞の後ろには「奈良」が来る。

 

 国語の教科書や参考書の中には「枕詞には意味がないので訳さなくてよい」などと書いているものもあるが、それぞれの枕詞にはきちんと意味(あるいは“由来”と言った方がいいだろうか)がきちんとある。

 

 先に例に挙げた「たらちねの」は漢字で「垂乳根の」と表記され、子育てを終えた母親の、加齢により垂れた乳房をあらわしている。だから「母」を引き出す枕詞になる。

 

 また「あをによし」は「青丹よし」と書く。これについては諸説あるが、一説によると大昔の奈良では青い土を加工した顔料「青丹」を産出しており、その製作過程を「馴熟(なら)す」とも言っていたところから、「奈良」を引き出す枕詞になったという。

 

 このように、枕詞そのものにも意味(ないしは由来)がきちんとあるのだ

 

 

 ここまで理解すると、じゃあなんで昔の人は枕詞なんてものを作り出したの?と思うかもしれない。俵万智によると(正確には俵万智の大学時代の恩師によると)、ここには平安時代に短歌が読まれていた場面が背景にあるという。

 

 平安時代では短歌というのは即興で詠み上げるものだった。つまり、現代のように出版された歌集を「目」で読むのとは全く異なり、「耳」で聞く情報だったのだ。

 

 そうした場面では、「たらちねのぉ~」という言葉を聞いた人は「お、次は母の歌だな」「母のことを歌うんだな」と心を構えるだろう。「おをによし~」という言葉を聞いた人はその時点で自然と奈良の美しい自然や荘厳な寺院を思い浮かべて次の語を待つだろう。

 

 このように、歌を受け取る相手が、イメージを膨らませる時間を与える効果が、枕詞にはあるのだ。それで枕詞というものが生まれたのだ。

 

 

2-2.本題:「あかねさすテラス」のすごさ

 ここで本題に戻ろう。

 この歌で出てくる枕詞、「あかねさす」の意味は何か。それは「茜色の光が差し込む」という意味である。

 

 現代で「茜色の空」などと言われると夕焼けを思い浮かべてしまうが、万葉集の時代にはむしろ朝焼けや朝日を修飾するときに使われていた言葉である。だからこの枕詞に続く単語は「日」「昼」「紫」「照る」などがある。ここで注目してほしいのは「照る」という言葉だ。

 

 先述した枕詞のルールや効果を理解した人ならわかるだろうが、「あかねさす」のあとに「てらす」という言葉が続いたら、一般的には「照らす」になるはずだ。少なくとも耳から入ってくる情報だけに絞れば、歌人なら絶対にそう脳内変換してしまうに違いない。

 

 しかし、俵万智が使ったのはカタカナの「テラス」。ベランダやバルコニーなどの“アレ”だ。まさかの外来語である。これは短歌にある程度理解のある人ほど驚く展開であろう。

 

 しかもそのあとに続くのが「わずかに」ではなく「はつかに」。外来語が来たと思ったら古語の登場である。もうこの3単語だけで情報量が異常だ。

 

 後半も「くるんと」と口語的なオノマトペを入れたかと思いきや、最後には「アビス」というこれまた古典的な短歌では絶対に素材になるはずのない観葉植物の名前の体言止めで締めくくられている。

 

 ここまで表現上の工夫がてんこ盛りなのに、全体の意味としては「茜色の光が差し込むテラスにはアビスがかすかに春を告げるかのようにくるんと葉を出している」といった感じで、爽やかで淡い風景が丁寧なまなざしで描写されている。

 

 表現も内容も100点満点の本当に素晴らしい歌だと思う。もう僕はこの歌についてはどう褒めたらいいかわからない。本当に天才だ。

 

 

3.まとめ

 以上、特にお気に入りの歌を2首引用して紹介した。

 1首目は音の響きや細やかな単語の選びによって熱狂的な恋心を描写することに成功している歌だし、2首目は枕詞を逆手にとった天才的な表現が見事な歌である。どちらも短歌の歴史の中で特記されるべき歌だろう。

 

 とくに2首目の表現は、短歌が「目から読まれる」この現代だからこそ可能だった表現であり、古典短歌にはなかった短歌のおもしろさを生み出している。

 平安の時代から続いていた短歌を飛躍的に「進化させた」、あるいは「解放した」と言ってもいい。そんな歌、そんな歌人である。

 

 

引用参考文献

俵万智『サラダ記念日』1987年、河出書房新社

俵万智『短歌をよむ』1993年、岩波新書

・永田和弘『現代秀歌』2014年、岩波新書

岡井隆『短歌の世界』1995年、岩波新書

*1:俵万智『サラダ記念日』

*2:俵万智『短歌をよむ』p.130

*3:俵万智『短歌をよむ』p.28

*4:俵万智『短歌をよむ』p.131

*5:俵万智『サラダ記念日』